戦前にフィリピンに渡った日本人と現地の女性の間に生まれ、戦争の混乱で父親と離別したフィリピン残留日本人2世の日本国籍取得が200件を超えた。新たに戸籍をつくる「就籍」の手法が使われているが、証拠が不十分として不許可となり、無国籍状態の人もいる。戦後73年目、2世の高齢化は進むばかりだ。残された時間は少ない。
「私のアイデンティティーは空っぽです」 フィリピン南部ミンダナオ島ダバオから車で約3時間、海沿いの町マビニで雑貨店を営むメラニオ・アウステロ・タクミさん(76)は訴えた。
「タクミ」はもともと、戦前フィリピンに渡り農園で大工をしていた日本人の父の名だという。父は1939年にフィリピン人の母と結婚し、1940年に長男の「イチロウ」、1942年にタクミさんが生まれた。翌年に生まれた妹が母のおなかにいるとき、消息不明になり、兄と妹は戦争中に家族で逃げた山中で死亡した。
タクミさんは「ミノル」と名付けられたが、戦後、反日感情が強かったフィリピンで生きるため、母はフィリピン名を名乗らせた。7歳のとき「父は日本人」と教えられた。
家は貧しく、10歳のとき、学校近くの親類宅に住み込み、洗濯や掃除、炊事をする代わりに小学校に通わせてもらった。学校では「日本人の子ども」といじめられた。
2008年、就籍を申し立てたが証拠不足として2011年に却下。日本国籍は認められなかった。数年前にフィリピン旅券を取得しようとしたが、今度は「父親が日本人ならあなたは日本人」として発行を拒まれた。いまは無国籍状態という。
日本国籍が認められれば「私の人生は完成する」。同時に、子や孫が「日系人」として日本に働きに行くことができ、生活を向上できると期待する。
長男のジュセブンさん(48)は「多くの2世が日本国籍を取得する中で、父は認めてもらえない。悔しい」と学んだ日本語で語り、涙を流した。
マニラに住むホビータ・ウエハラさん(71)は、「ウエハラ」姓をずっと使い続けてきた。父はセブ島で「ケンペイタイ」だったと聞いた。「タガログ語、英語、ビサヤ語、日本語ができたという。通訳だったのかしら」
母によると、母は15歳のときに父に見初められ「いやいや結婚した」。姉が1944年に生まれ、ウエハラさんを身ごもっているとき、父はいなくなった。一家は戦後マニラに移り、母は縫製の仕事をして育ててくれた。幼いころから「日本人」といじめられた。
ウエハラさんは若いころ、生活のために海外に働きに出ようと旅券を申請したが、日本人の姓だとして取得できなかった。2012年に日本での就籍を申し立てたが、2014年に却下された。 「フィリピン国籍も日本国籍も認められない私は何者ですか?」
フィリピンには戦前、多くの日本人が移り住み、マニラ麻栽培などで豊かな日系人社会を築いていた。多い時は3万人いたとされる。
現在の残留日本人2世のほとんどは、そのときに日本人男性と現地の女性との間に生まれた子どもたちだ。当時の国籍法は両国とも父系主義。父が日本人ならば2世も日本人とされた。戦後、父親は強制送還され、2世の多くは母親と現地に残され、厳しい生活を強いられた。外務省によると、2015年時点で約3,500人の2世が確認されたが、うち日本の父の戸籍に名がある人と就籍が認められた人を合わせても1千人超にとどまる。
残留2世らは1990年代から親族捜しを求めてきた。見つからない人も多く、父親の戸籍が分からなくても日本国籍を取得できる「就籍」が初めて認められたのは2006年。NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC、東京都新宿区)が日本財団の資金援助を受けて就籍支援を進め、現在までに212人に許可が出た。
出生の記録や写真、親類の証言など「証拠」が整えば、日本の家庭裁判所への申請で就籍が認められるが、戦争で記録類が焼失していたり、当時を知る人が死亡していたりするケースは多い。申請を却下され、無国籍状態の人も少なくない。
フィリピン政府は一般論として「2世がフィリピン国民と認められるには、成人するまでにフィリピン国籍を選択していなくてはならない。その条件を満たさず、日本国籍も取れなければ無国籍の状態は起こりうる」としている。
戦後72年が過ぎ、2世たちも高齢化している。2015年には代表者らが日本を訪れ、安倍晋三首相に就籍支援を訴えた。PNLSC代表の河合弘之弁護士は「両国から国籍を認められないのは棄民と言える。何とか救いたい」と話す。(朝日新聞等より)
日本から最初に移民を受け入れた国フィリピン。戦争で多くの人が犠牲になったが、国の狭間で未だに苦しんでいる人は居る。彼らにとっては、高齢化が進むが戦後は終わっていない。生きているうちに何とかして欲しいものだ。